NHKの番組で、某都立高校の卒業式の模様が放送されていた。国歌斉唱のときに立たなかった先生は、処分されるという。教育委員会とその指導のもと、校長先生の方針は「職務命令として出し、卒業式当日は、管理職と教育委員会の人が監視、違反者は処分」。定年後の嘱託再雇用がなくなったり、戒告、減給が行われるという。昨年は、約250人、今年は約50人が処分の予定らしい。
僕は、普段「国旗」「国歌」を嫌だと思うことはないけれど、今回、テレビで、校長先生が、国歌のピアノ演奏を音楽の先生に職務命令し、卒業式前日リハーサルで国歌の演奏テンポについて、音楽の先生に「もう少し遅く」とか注文つけているのを見てぞっとした。彼らは「国歌斉唱」に何を求めるのだろうか? 「気持ち」を無視して強制すればするほど、本来「好き」になる可能性のある曲でさえ、つまらないもの、嫌なものの代名詞になってしまう。この曲の、人と人とを結びつけるかもしれない「音楽」のエネルギーを台無しにする行為だと思う。
昔、フィンランドで、圧政下で演奏された「フィンランディア」が国民にもたらしたもの、第2次大戦中、ショスタコービッチの交響曲が食糧難となってしまった人々を励ましたことなど、音楽が人の心に及ぼす影響は計り知れない。究極的な状況においては「一片のパン」よりも「心に響く音楽」の方が人々に生きる力を与える、ともいわれる。しかし、一歩間違えば、つまり、反発しているのに他国の言葉を強制したりすれば、どういう結果になるか…歴史はいろいろなことを教えてくれている。
生まれたときから自分の国を嫌いな人はいない。もちろん、誰も、どの国に生まれるか選ぶことは出来ないけれど、その国に住んでいるという時点で、少なからず「国によって守られている」という現実が存在する。少なくとも「国」と「自分」との関係を考えざるを得ない。その「守られている」ことへの感謝や一緒に生きている仲間といろいろ成し遂げることから、人々の心に「愛国心」が生まれるように思う。大切なのは、一人一人が、国やそこに生きる仲間のために、自分に出来る「ささやかなこと」を考えることであって、国旗や国歌は、その象徴にすぎない。もちろん大切に扱うことは、自由だが(僕自身は大切なものだと思うが)、強要すべきことではないと思う。ましてや、地方自治体が命令して、違反者を処罰するというのは…人々の心が自然にそこに向かうように、また、安心して暮らせるために、ケアするのが仕事ではないか…
今回の問題に関していえば、処分されたり、不愉快な思いをした人は、「君が代」を二度と好きになることができなくなるかもしれない。そういう人を作り出そうとしていることに腹が立つ。命令を出している人は、あと何年かすれば引退だろうが、処分された方は、一生忘れられない。このやり方が広がるようなことになれば、この先、何十年も影響を及ぼす可能性がある。
ナチと結びついたワーグナーの音楽は、戦争から半世紀以上経った今でも、イスラエルでは、国民の反発から、ほぼ演奏不可能な状態。ワーグナーもその音楽も全く罪はないのに…音楽には、政権を選択する自由はないけれど、「政権」が利用した音楽の行く末は、悲しい。すばらしい、人類の宝物であるワーグナーの音楽が、ある人達にとっては、つらい過去を思い出す、受け入れがたいものになってしまっている。結局、未来の人間が損をするのだ。
「君が代」は、とても美しい曲。だから、皆で楽しく「歌いたい」。こういう命令でズタズタにしないでほしい。僕は、若い世代だから詳しいことは分からないけれど、戦後60年経って、これから国歌に対する人々の気持ちが和らいでくるはずなのに、「強制」「処分」という手段を使って、時計の針を戻さないでいただきたい。
卒業式のマニュアルには、国旗の扱い方も、細かく決められているようだった。そこには、少しばかり、独裁国家における「独裁者の肖像画」の扱い方と共通するものを感じた。いつの間にか、布(国旗)の扱い方一つで、人が「処分」される時代になってしまったのだろうか。足音を立てずに何かが忍び寄っているというようなことがなければよいのだが…
もう一つ、気になることがあった。このような場面にカメラが入ることをかなり「規制」していたこと。私達が普段、手に入れている情報は、どこまで「真実」なのか。世の中には「何も語らない(語ることのできない)」不幸なこと、人たちが、もっと存在するのではないか。
すべてが良い方向に向かうことを願っている。(の)