よくクラシック音楽は、敷居が高いといわれます。他のジャンルの音楽に比べ、少しばかりとっつきにくい、どうやら、これは事実のようです。今日は、そのことについて考えてみました。
ハイドンの作品は、200年以上前に作曲されました。今、我々が使っている譜面はせいぜい数十年前の印刷物ですし、昔の文学作品を読むときの古文のように、わからない文字が出てこないから、それほど意識しませんが、「200年前に生きていたハイドンが、その時代の人々のために作ったもの」、動かしがたい事実です。
これは、一体何を意味するか? 簡単に言えば、私達のために作られた作品でないということ、つまり、そのまま我が家のテレビで(受身に)お笑い番組を見るような感覚で、楽しめない可能性があるのです。曲を現代風にアレンジして、我々に近づけるか、私達がその曲に近づくか、何かしないとお互いに溝ができてしまいます。そう、ここで、「彼らに近づく」「作曲家の意図を忠実に再現する」と考えるのが、クラシック音楽の姿勢です。
それでは、「200年前の人たち」は、どんな人で、どんな生活をしていたのでしょうか? 一見、難しそうですが、私達の身の周りにあるものを一つ一つみていくと意外と簡単にわかります。
例えば、「電気」。当然なし。ということは、夜は真っ暗。電車や自動車、飛行機がないので、動く物のスピードは、速くても時速数十キロ、生活のリズムもゆっくりしていたと思われます。音楽においては、ステレオも、ラジカセも、すなわち録音なんてものは存在しませんでした。楽譜が音楽を伝える唯一の資料で、聴き手にとって、ハイドンの音楽は初めてのものばかり。それは、おそらく私達にとっての現代音楽のようなもので「ハイドンおじさん、今日は何をやってくれるのかな?」なんて感覚だったかもしれません。だとしたら、演奏会で取り上げられる曲をあらかじめCDで聞いておく必要はありません。もし、聞いてしまったら、あらかじめラストシーン知ってから見始める連続ドラマみたいになってしまいます。
逆に、オーケストラにどんなことを期待できるでしょうか? 建物が揺れんばかりのロック・ライブ・コンサートの大音量? マーラーのような100人以上の大編成の迫力? ハイドンの交響曲の演奏会にそういうことを期待なさっても、それは無理です。当時は、電気音がないから、今のような大きい音がそれほどなかったと想像されます。管楽器についてはまだ、発展段階で、出せる音にも制約がありました。トランペットやホルンは、今のように音階を自由に吹くことはできませんでしたし、クラリネットは、晩年のごく一部の作品を除いてまだ、使われていませんでした。トロンボーンやチューバなどが使われるのは、さらに後の作曲家の作品です。一つ一つの楽器の音量は小さく、逆に小さい音しか出ないチェンバロが重宝されていた時代でもありました。使われている和音も、今から見ると刺激的なものは少なく、今私たちが、単純な美しさをみつけることのできるモーツァルトの音楽に、当時の人々は、なんて現代的な(汚い、ぶつかった)和音が使われているのだろう、と感じたといわれています。つまり、時代背景、特にどのような制約のもとで書かれたか、このことを抜きに考えることはできないのです。
すばらしいクラシック音楽を聴くとき、そんな難しいことを考えなくても、それ自体、魅力的なのですが、ひとたび、歴史的な背景の存在を認識すると、その音楽の魅力は、急に広がって、理解が深まります。
今、私達は、騒音だらけの世界で生活しています。音楽においても、電気のおかげで簡単に大きい音を出すことができるようになり、録音のおかげで、演奏者がいなくてもCDの音楽を聞くことができます。私達の耳は、そういうものに慣らされてしまいました。言い換えれば、刺激の強いものが多いから、微妙なものに対する感覚が少し麻痺ぎみといった感じです。 そのことに気がついて、私達の耳をハイドンの時代の耳に近づけようとすれば、つまり、同時代の生のクラシック音楽をたくさん聞いて、少し感覚を身に付ければ、相手は、何といっても200年間廃れずに生きてきた音楽です、非常に身近に感じることができます。時代を超えて共通な魅力、言葉で説明できないような(例えば、うれしい、悲しい、楽しいなど、もちろん、そんな単純ではありませんが)さまざまな感情を伝える、いや、人によって受け取り方の異なる、想像力をかき立てる何かの存在に気づきます。
初めは慣れるまで時間がかかるかもしれませんが、たくさん聞いていれば、そのうち感覚を戻すのに、わずかな時間で済みます。そうなれば、しめたもの。今度は、複製の絵を見て、本物を想像し感動できるように、電気音の音楽(CDなど)を聞いて、生の音を想像することができるようになります。
どんどんクラシック音楽の楽しい世界が広がっていく瞬間です。(の)